【ネタバレ】「劇場版 冴えない彼女の育てかた fine」私なりの感想と考察 描かれる「普通の男女の恋愛」
いちオタクでしかなかった安芸倫也が冴えないただの女の子でしかない加藤恵を、自らの製作するギャルゲーのヒロインにする。
2度のアニメ化で多数のファンを獲得し、今作でついに完結。私も観に行きました。
皆さん、どうでしたか。この記事はネタバレをしていくので、未視聴の方は今すぐ劇場へ。TV版も見ていない方は、今から見ても遅くないぞ。
私にとってこの作品は、自分がオタクであることを肯定してくれるストーリーだった。
思ったこと感じたことをつらつらと書いていきます。
Topic:加藤恵というヒロインと、英梨々&詩羽
今作の映画で最もフューチャーされているのが加藤恵だ。
TV版でも正妻力をアピールしてきた彼女だったが、今作では加藤が倫也と付き合うまでの過程を描いている。
私個人としては、もちろん「冴えカノ3大ヒロイン」といえる英梨々と詩羽先輩も好きなのだが、TV版2期8話の、倫也と加藤の腹を割った会話と、普段感情を顕にしない彼女の涙を見て、あるいはもっと前から私の中では加藤が正ヒロイン以外考えられなかった。
彼女の存在こそが、「冴えない彼女の育てかた」を、ただの萌えアニメにとどめていない理由の一つでもある。冴えカノをラブストーリーとして昇華させるのにいちばん重要な存在だ。
オープニングで、冴えカノ特有のメタ発言により英梨々と詩羽の扱いが劇場では悪くなるんでしょう(実際、クレジットは「焼肉屋の店員」より下だった…。)という言葉の通り、もちろん重要な役割を持っているものの、彼女達のヒロインとしての扱いは加藤には及ばない。
今作における前半30分ほどは、倫也と加藤がより近づいていくための時間だった。
メインヒロインシナリオという、いわば「倫也から加藤へのラブレター」を、二人で確かめ合う過程。
劇中では「ヒロインと主人公が仲直りするシーン」を、倫也と加藤は「フラグがたつイベント」と捉えている。それは先述した2期8話のシーンや、倫也があの坂道で涙を流す2期最終話に通ずるものがある(ヒロインが、主人公を抱きしめないで思い切り泣かせてあげたのも全く同じ)。
特に8話では加藤の「blessing software」への想いが語られる。
話は前後するが、エンドクレジット後の詩羽先輩の妄想パートで、夢に敗れて営業マンになった倫也に愛想をつかせる彼女の姿がある。
私が思うにこれは最もわかりやすく加藤が倫也にもつ想いを表現している。加藤の「blessing software」に対する想いは、自分をヒロインにしてくれる倫也への想いとニアリーイコールにあらわれている。
ゲーム制作に没頭して、とてつもない天才を前に凡人なりに努力をしている倫也だからこそ、加藤は惹かれたのだというのは、視聴者全員が理解できるところだと思う。
だとすると、あのエピローグはただ単に冴えカノ的なギャグとして留めておけるものではなく、詩羽先輩が物書きとして、そして恋敵としての加藤のことを理解した上で書いた物語であったということだ。
今作において詩羽先輩は、倫也への想いを声を大にすることなくフェードアウトしている。それどころか、英梨々を倫也から諦めさせるような役回りをしている。
TV版から成長し大学生になった彼女は、これまでのストーリーと比べてあまりにも大人だ。わかりやすく最も詩羽がヒロインとして輝いたのはやはり倫也とのキスであり、それ以降負けヒロインとなってしまっているのはとても悲しいが…。
それと比べて英梨々の存在はもっと大きい。
倫也と英梨々の間の出来事と、イベントはあまりにも多すぎた。部屋にこもった英梨々のもとに倫也が駆けつけたこと、那須高原で英梨々の修羅場に付き添ったこと、なにより、2期での英梨々の扱いはあまりにもヒロイン過ぎた。2期のOP見た?あの、サビ入りから長尺で花畑を走る英梨々。あれがヒロインじゃなかったらなんだって言うんですか!!
今作における英梨々の重要な発言「10年前、私のこと好きだった?」
この言葉の重さはアニメ2期まで見た視聴者なら理解できるだろう。
英梨々に限らず倫也も、この10年間はお互いが素直になれない時間を過ごしてきた。そんな英梨々がやっと紡ぐことができたあの言葉。でも、もう遅いよね…。っていう。
その後の詩羽先輩の言葉「彼は間違いなく私達に恋をしていた」。それでも彼女たちを選ばず、倫也は加藤を選んだ。
さて、倫也と加藤の恋愛の模様は、TV版では主だって取り上げられなかった。TV版描かれたのは、倫也が夢に向かって努力する姿と、英梨々と詩羽がクリエイターとして成長していく姿が主だった。
その上で、今回の映画で加藤が倫也にとった行動、倫也と加藤の関係の発展に私が思ったことがある。
Topic:冴えカノの"普遍性により帯びる現実味"
加藤というキャラクターが冴えカノにおける他作品と一線を画する特徴であるというのは先述したとおりだが、とくに主張しなければならないのは、加藤の行動がもたらすのは、このアニメに対するリアリティだ。
立ち位置的に「オタク文化のことをよくわかっていない普通の女の子」として登場しているだけではない、倫也に対して、あまりにも「普通の女の子」であり続けたのが加藤だ。
例を上げるとするならば、駅のホームで倫也が書いたシナリオのロケハンをするシーン。
あなたの目に、加藤のアプローチはどう映りましたか。台本に合わせて手を重ね合い、恋人繋ぎへ発展していく、見ている方が照れてしまうような、甘いシーンだ。
おそらく作り手としてもあのシーンは、できるだけわかりやすく恥ずかしいシーンに仕上げたはずだ。それはあまりにもベタな展開だが、それが多くの「普通の女の子」がしたいことだとしたら。
そして、その後、加藤は倫也とこんな話をする。
「起承転結の『転』が必要なのかどうか」
ここで「転なんていらない」と答えた加藤。
何てことないセリフだが、好きな男の子との間に「転」を求めたくない。なんて、「普通の女の子」なんだろうか。好きな人と一緒にいられればそれでいい。そんな考え方が顕になっている。
その時倫也が「ずっとイチャイチャしているのがいいのか?」と頓珍漢な発言をしてしまうせいで、視聴側に伝わりづらいのだが…。
では逆に、倫也の想いについて考えていこう。
今作の中で倫也は、メインヒロインのストーリーについて朱音さんに相談し、「だれもが恥ずかしくなってしまうようなキモいストーリー」にアイデンティティを見出している。
ここで倫也の言う、「誰もがキュンキュンしてしまうような、魅力的なヒロインによるラブストーリー」というのは、我々がいま見てきたものだ。
私が思ったのは、「現実ってこういうもんだよな」
目を覆いたくなってしまうような恥ずかしいシーンとして揶揄されてはいるが、どちらかというと、あまりにも恥ずかしく、あるいはベタすぎて誰もが小説やあるいはストーリーとして描かないようなことこそが現実であり得る。
ドラマチックな起承転結が起こって結ばれるわけではなく、倫也が思い描くような「痛いヲタクの妄想」というのが、実際には一番現実に近くて、それは加藤ないし「普通の女の子」が求めることなのではないだろうか。
ただし、これを普通の小説でやっても意味がない。なぜなら現実よりも創作のほうが面白いから。そういう意味で言えば、冴えカノのようなオタク的起承転結物語をメタ的な視点で見ることができる作品だからこそ選択することができたルートなのかな、と。
倫也と加藤がキスするシーンでも同じだ。はじめのキスに失敗して、「いっせーの」で二人でキスする。こんなのも、描かれないだけで、現実の男女はきっとこんなものなのだ。美智留と出海にからかわれてしまうほど、恥ずかしく、甘酸っぱい。
要は、オタク的な夢の描き方は、きっと間違っていないんだろう。
告白直後、加藤に「俺でも頑張ればイケると思った」なんて言い腐った倫也だったが、要は天才でもなんでもない平凡な二人による平凡なラブストーリー。
そのシーンで「普通の女の子なら怒って帰っちゃうよ」と言った加藤ちゃんだったが、それも一つ加藤ちゃんの「普通の女の子」たる所以だ。「こんなこと許してくれるの私くらいなんだからね」的なセリフ、非常に「普通の女の子」じゃないかな。こんなめんどくさい言葉、きっと普通の創作では取り上げられないセリフだ。
そのような思いを持った加藤ちゃんだからこそ、劇中のゴタゴタなんてものは「タイミングが悪かったんだよ」で済ませられる問題なのだ。それでも、わかってても怒っちゃうのがリアルなんだけどね。
「二次元の女の子みたいに笑って送り出せばいいの?それとも三次元の女の子みたいに泣いて怒ればいいの」という言葉も、単なるメタではない。
二次元的に起こりうる「転」に対しての加藤ちゃんなりの考え方だ。だからこそ、その後に待つ「結」を受け入れることもできる。
「名前で呼び合う」「毎日スカイプで通話する」「誕生日だから一緒に池袋に出かける」「もうとっくにフラグは立ってる」とか言っちゃう。そんな、「絶対あいつ俺(私)のこと好きじゃん!」という関係性になるまで告白できないのも、現実でよくある話だ。
Topic:冴えカノは萌えアニメにとどまらない
冴えカノは、魅力的なキャラクターによる恋愛を題材にしたストーリーだ。ただし、それに限らない題材がある。
勿論ひとつには、あれだけ倫也と加藤の関係性を綿密に書くようなことは、萌えアニメにはあまりない。ギャルゲーを舞台にしたこのストーリーはやっぱり恋愛アニメだ。ただ、それだけではない。
たとえば、「バクマン。」という作品があるが私はそれに近いような、業界、あるいは物書きの世界を描きたかった世界なのかな、と感じた。
このアニメは、ただの消費豚(詩羽先輩談)である安芸くんが、周囲の天才にまみれてクリエイターとして成長していく話だ。ただの恋愛物語に落ち着かず、クリエイターとしてのあり方を示している。詩羽先輩と英梨々の姿は、まるで原作者丸戸先生とイラストレーター深崎先生に通ずるものがある。その点における、クリエイター側の思想についてのリアリティが強かった。
これはこれまでの各イベントでも、アニメに対して丸戸先生や深崎先生が非常に深い関わりを持っているという発言が多かった。その辺のリアリティは、原作サイドの協力あってこそだろう。
わたしは以前書いた記事の中で、このアニメで共感性羞恥を感じるといったようなことを執筆した。要は、倫也が話す妄想が、一番痛い頃の自分を見ているかのようだったから。実際冴えカノを見ていると、色々なシーンにおいて歯がゆさ、むずがゆさみたいなものを感じた。
例えばこれが「冴えない彼女の育てかた」を書いている側(倫也あるいは原作者丸戸先生)の思惑だったとしたら。要はめちゃめちゃ恥ずかしくてキュンキュンする物語を恥ずかしげもなく書くことを武器として視聴者に刃先を向けているとしたら。こちらがニヤニヤしてしまった時点で「してやられた」ことになるだろう。
さすが、丸戸先生。
もうひとつ、今作では朱音さんが重要な舞台装置として登場した。2期終盤で英梨々と詩羽先輩をヘッドハンティングするという、ようは恨みを買うような形で登場したものの、その姿はクリエイターとしての理想と現実を倫也に示す存在だった。
それは冴えカノにおいて大きな1事件ではあったものの、英梨々と詩羽がクリエイターのしての自分と、倫也への恋慕を天秤にかけるきっかけとなった。思えばあの二人がヒロインとして退場したのは、その一件だったのかな。
そのようにクリエイターとしての姿を併せ持つヒロインたちの姿がドラマを生んでいる。
映画最後のシーン、カンパイと言い合う彼女たちの姿がある。それは、「冴えカノ」が終わることに対しての「お疲れ様」であるのは自明だが、そのような演出の裏には、これまで何度もメタ発言をしてきた作品の中に、クリエイターの姿を見え隠れさせている、キャストたちの生の声だった。
おわりに
「冴えない彼女の育てかた」は終わってしまった。パンフレットでもキャストの皆さんは揃いも揃って終わってしまうことに対する寂しさを示していた。私もそうだ。冴えカノロスだよ…。
「私は、あなたの思い描くヒロインになれましたか」
何も文句のつけようがない終わり方だった。加藤を「冴えない彼女の育てかた」のヒロインにさせたのは倫也であり、丸戸先生であり、深崎先生であり、視聴者であり、私だ。
加藤はこの物語に関わったすべての人間に語りかける。冴えカノが唯一無二の特徴を持つ限り、全オタクにとって加藤は唯一無二の存在で有り続ける。
とりあえず私は、死ぬまで深崎暮人先生の美麗なイラストを追い続けることにします。
最高のラブストーリーをありがとう。