今更見る「血界戦線」の面白さを、ネタバレせず良かったところを淡々と書く
血界戦線をやっと見ました。やっとですよありえなくないですか、こんな名作を。
今更見て、今更最高かよってなっているので、この熱が冷めやらぬうちにとっとと感想記事を残しておこうと思います。
ただし、ストーリーのネタバレは一切しないので、これを読んだ後、未だ未視聴であれば、そのままdアニメでも入会して観てしまいましょう。
良かったところ1:作画
作画、良かったですね。私はどうしようもなく作画厨といっても差し支えないタイプのアニメ好きなのですが、作画に関しては全く文句ないどころか最高でしたね。
まず、製作がボンズっていう時点で最高です。ボンズていうのはこれまでも「カウボーイビバップ」や「交響詩篇エウレカセブン」や「スペース☆ダンディ」といった、一部の作画ファン垂涎の神作画を作り上げてきた熟練のアニメーターを抱える、いまアニメを作らせたら最も作画に力を入れることができるアニメ制作会社の一つです。
もちろん、作画というのはキャラの動きとか、そういうものも大事なのですが、今作では背景にもとても力が入れられていました。
舞台となるヘルサレムズ・ロッドは、NYと異世界が混ざった町という設定ですが、実在する都市であるだけあって、簡単作画が許されないといったところがあります。世界観を表現するために背景作画がとても重要になってくるタイプのこの手の作品で、まったく最高の雰囲気を作り上げていました。
また、今作は戦闘シーンも多く、躍動感のあるダイナミックなキャラ作画も目につきました。
私個人としては、1期12話でクラウスと絶望王の戦闘シーンが最高でしたね。
というのも、先ほど挙げた「カウボーイビバップ」や「交響詩篇エウレカセブン」や「スペース☆ダンディ」では、めちゃめちゃ最高なミサイル作画がみられたのですが、なんと「血界戦線」においても人間対人間の戦闘シーンにもかかわらず見事なミサイル作画がみられたからです。私は最高な作画すぎて見ながら声が出てしまいました。
もう一つ、今作では本筋のストーリーの合間にこまめにコメディが挟まれていました。特に主人公レオと、ザップさんの掛け合いのシーンなどは、さすがの阪口大助さんといえばいいのか、テンポの良いツッコミが炸裂していましたね。
そういうシーンで、嫌みなくギャグとツッコミを混ぜ込むことができるのは素晴らしいです。ネガティブな表現で作品名は出したくないので伏せますが、せっかく本筋のストーリーが面白くてもギャグとツッコミのたびに一息つかないといけないような作品は、見ていて不自然さを感じます。
今作でいうと、そういうシーンにはキャラのタッチもデフォルメというか、ギャグ向けの作画に切り替わっていました。「フリクリ」みたいな感じですかね。こういったように場面によってテンポよくギャグを挟むことができるアニメは実はあまり多くありません。その秘訣は、劇伴の力も支えになっていると思います。
良かったところ2:音楽
というわけで劇伴、しいては挿入歌についても特筆すべきものが多くありました。
とりわけ、挿入歌は良いですね。wikipediaにあるものをざっと見ても、ほぼ毎回挿入歌が用いられています。それらはいずれもロックテイストなものが多く、日常とコメディと戦闘がシームレスにつながっている印象を受けます。これは劇伴だけでなく、音響監督の演出力もあると思いますが。
ちなみに劇伴は1期2期とも、各サブスクリプションサービスで配信されているので、手軽に聞くことができます。私は「Call You Later」が好きです。
OPはBUMP OF CHICKENの「Hello,world」。これは一発でやられました。個人的には年齢の割に周りと比べてBUMPは聞いてこなかった方なのですが、それにしたって素晴らしかったですね。
OP映像がよかったのももちろんありますが、大サビで鐘の音と一緒にレオががれきの中に立ち尽くすシーンは神々しさに目がやられます。
それとEDはご存じ「シュガーソングとビターステップ」。これがいい味を出しています。先ほどもコメディとシリアスのバランスの話をしましたが、OPに比べて底抜けに明るい曲調のEDは、どれだけストーリーが重くなっても、いい意味でリセットしてくれるような、素晴らしいED曲です。人気曲ですが、これはED曲だからこそ一層引き立つものがありますね。
良かったところ3:キャラクター
キャラクターも良かったですね。いい意味でごった返していました。
私はもともと群像劇のような演出が好きなのですが、今作のように登場人物が多いと、もちろん名前も知らないようなキャラや、「こいつ結局どういう仕事してたの?」みたいなキャラも出てきます。
ただ、私はそれが最高だと思ってて、要は最終的には主人公がヒロイックに活躍するような作品であったとしても、その背景には無数のモブがいて、縁の下の下の下くらいを支えている微力な力持ちの存在が感じれるからです。
今作では12話しかないのに、日常回に単発のゲストキャラが登場していたりと、モブに対する扱いが非常に良かったです。11、12話でなんだかよくわからない仕事をしていた人とか。
それで、彼らにあてられる声優さんも豪華でした。主人公の相棒のサル、ソニックは内田雄馬さんだし、キャラ名もよくわからないおっさん(調べたらスミスというらしい)は石塚運昇さんだし。
それでいったらホワイトはすごかったですね。釘宮理恵さんですよ。奇しくも阪口さんとのタッグで血界1期を引っ張っていましたが、くぎゅの演技力がマ~~ジで高かった。
釘宮さんはそこいらの声優さんと比べても声質が特殊なのはもちろんのことですが、それに加えてきちんと演技力で使い分けるのが本当にすごいですよね。
「あ、この声くぎゅだな」って気づきはしても、その都度演技が違うのでたとえばアイマス好きな僕が聞いても「伊織の声だ~!」ともならず、銀魂好きなあなたが聞いても「神楽の声だ~!」ともならないんじゃないかな。
もう一つ、付け加えるなら、先ほども挙げたシリアスとコメディのバランスの件でいうと、堕落王(CV.石田彰)と偏屈王(CV.こおろぎさとみ)の存在は大きかったですね。彼らは、大きく見ればライブラと敵対した形にはなっているものの、1話の時点でなんだこいつら、というような独特の存在感でした。
敵対する立ち位置の彼らがコメディたっぷりであるがゆえに、不思議とそちら側を応援してしまいそうになります。とてもヒロイックで魅力的なキャラクターです。
これは、石田さんとこおろぎさんの存在感がなせる業ですね。
要は、雰囲気がよかった
長々と語ってきて何がよかったかというと、要は雰囲気がよかったんです。この作品は背景作画も劇伴もギャグとシリアスのバランスもヒロイックな敵キャラも、すべての要素が合わさって作り出している雑多でアナーキーな雰囲気がありました。
この作品を大学の研究室で見ていたら友人のドイツの留学生に「それ血界戦線?まだシーズン1のエピソード2?So beginingだね,面白いよ」と話しかけられました。海外からの人気もすさまじいですが、そういう作品を作ろうと思って作るのは難しいです。
個人的に海外で人気の作品はこういった雰囲気の良さが求められるなと感じていて、それこそ話題にあげた「カウボーイビバップ」なんかまさしくそうですよね。
ただし、血界戦線はそれでいてジャンプ漫画なんですよね。これが何といってもすごい。劇中のキャラはそれぞれ必殺技なんかを持っていますが、そういった作品を王道バトルもの的な描き方をするんではなく、よりアナーキーさを煮詰めたこういう雰囲気アニメに昇華させることができるのは、やはり歴戦のボンズが製作しているからに違いないでしょう。きっと必殺技が派手でかっこいい少年向けアニメだったら、私はここまで推せていません。
NYと異世界の雰囲気漂う血界戦線、間違いなく最高の作品でした、という今更ながらのレビューです。
【ネタバレ】「劇場版 冴えない彼女の育てかた fine」私なりの感想と考察 描かれる「普通の男女の恋愛」
いちオタクでしかなかった安芸倫也が冴えないただの女の子でしかない加藤恵を、自らの製作するギャルゲーのヒロインにする。
2度のアニメ化で多数のファンを獲得し、今作でついに完結。私も観に行きました。
皆さん、どうでしたか。この記事はネタバレをしていくので、未視聴の方は今すぐ劇場へ。TV版も見ていない方は、今から見ても遅くないぞ。
私にとってこの作品は、自分がオタクであることを肯定してくれるストーリーだった。
思ったこと感じたことをつらつらと書いていきます。
Topic:加藤恵というヒロインと、英梨々&詩羽
今作の映画で最もフューチャーされているのが加藤恵だ。
TV版でも正妻力をアピールしてきた彼女だったが、今作では加藤が倫也と付き合うまでの過程を描いている。
私個人としては、もちろん「冴えカノ3大ヒロイン」といえる英梨々と詩羽先輩も好きなのだが、TV版2期8話の、倫也と加藤の腹を割った会話と、普段感情を顕にしない彼女の涙を見て、あるいはもっと前から私の中では加藤が正ヒロイン以外考えられなかった。
彼女の存在こそが、「冴えない彼女の育てかた」を、ただの萌えアニメにとどめていない理由の一つでもある。冴えカノをラブストーリーとして昇華させるのにいちばん重要な存在だ。
オープニングで、冴えカノ特有のメタ発言により英梨々と詩羽の扱いが劇場では悪くなるんでしょう(実際、クレジットは「焼肉屋の店員」より下だった…。)という言葉の通り、もちろん重要な役割を持っているものの、彼女達のヒロインとしての扱いは加藤には及ばない。
今作における前半30分ほどは、倫也と加藤がより近づいていくための時間だった。
メインヒロインシナリオという、いわば「倫也から加藤へのラブレター」を、二人で確かめ合う過程。
劇中では「ヒロインと主人公が仲直りするシーン」を、倫也と加藤は「フラグがたつイベント」と捉えている。それは先述した2期8話のシーンや、倫也があの坂道で涙を流す2期最終話に通ずるものがある(ヒロインが、主人公を抱きしめないで思い切り泣かせてあげたのも全く同じ)。
特に8話では加藤の「blessing software」への想いが語られる。
話は前後するが、エンドクレジット後の詩羽先輩の妄想パートで、夢に敗れて営業マンになった倫也に愛想をつかせる彼女の姿がある。
私が思うにこれは最もわかりやすく加藤が倫也にもつ想いを表現している。加藤の「blessing software」に対する想いは、自分をヒロインにしてくれる倫也への想いとニアリーイコールにあらわれている。
ゲーム制作に没頭して、とてつもない天才を前に凡人なりに努力をしている倫也だからこそ、加藤は惹かれたのだというのは、視聴者全員が理解できるところだと思う。
だとすると、あのエピローグはただ単に冴えカノ的なギャグとして留めておけるものではなく、詩羽先輩が物書きとして、そして恋敵としての加藤のことを理解した上で書いた物語であったということだ。
今作において詩羽先輩は、倫也への想いを声を大にすることなくフェードアウトしている。それどころか、英梨々を倫也から諦めさせるような役回りをしている。
TV版から成長し大学生になった彼女は、これまでのストーリーと比べてあまりにも大人だ。わかりやすく最も詩羽がヒロインとして輝いたのはやはり倫也とのキスであり、それ以降負けヒロインとなってしまっているのはとても悲しいが…。
それと比べて英梨々の存在はもっと大きい。
倫也と英梨々の間の出来事と、イベントはあまりにも多すぎた。部屋にこもった英梨々のもとに倫也が駆けつけたこと、那須高原で英梨々の修羅場に付き添ったこと、なにより、2期での英梨々の扱いはあまりにもヒロイン過ぎた。2期のOP見た?あの、サビ入りから長尺で花畑を走る英梨々。あれがヒロインじゃなかったらなんだって言うんですか!!
今作における英梨々の重要な発言「10年前、私のこと好きだった?」
この言葉の重さはアニメ2期まで見た視聴者なら理解できるだろう。
英梨々に限らず倫也も、この10年間はお互いが素直になれない時間を過ごしてきた。そんな英梨々がやっと紡ぐことができたあの言葉。でも、もう遅いよね…。っていう。
その後の詩羽先輩の言葉「彼は間違いなく私達に恋をしていた」。それでも彼女たちを選ばず、倫也は加藤を選んだ。
さて、倫也と加藤の恋愛の模様は、TV版では主だって取り上げられなかった。TV版描かれたのは、倫也が夢に向かって努力する姿と、英梨々と詩羽がクリエイターとして成長していく姿が主だった。
その上で、今回の映画で加藤が倫也にとった行動、倫也と加藤の関係の発展に私が思ったことがある。
Topic:冴えカノの"普遍性により帯びる現実味"
加藤というキャラクターが冴えカノにおける他作品と一線を画する特徴であるというのは先述したとおりだが、とくに主張しなければならないのは、加藤の行動がもたらすのは、このアニメに対するリアリティだ。
立ち位置的に「オタク文化のことをよくわかっていない普通の女の子」として登場しているだけではない、倫也に対して、あまりにも「普通の女の子」であり続けたのが加藤だ。
例を上げるとするならば、駅のホームで倫也が書いたシナリオのロケハンをするシーン。
あなたの目に、加藤のアプローチはどう映りましたか。台本に合わせて手を重ね合い、恋人繋ぎへ発展していく、見ている方が照れてしまうような、甘いシーンだ。
おそらく作り手としてもあのシーンは、できるだけわかりやすく恥ずかしいシーンに仕上げたはずだ。それはあまりにもベタな展開だが、それが多くの「普通の女の子」がしたいことだとしたら。
そして、その後、加藤は倫也とこんな話をする。
「起承転結の『転』が必要なのかどうか」
ここで「転なんていらない」と答えた加藤。
何てことないセリフだが、好きな男の子との間に「転」を求めたくない。なんて、「普通の女の子」なんだろうか。好きな人と一緒にいられればそれでいい。そんな考え方が顕になっている。
その時倫也が「ずっとイチャイチャしているのがいいのか?」と頓珍漢な発言をしてしまうせいで、視聴側に伝わりづらいのだが…。
では逆に、倫也の想いについて考えていこう。
今作の中で倫也は、メインヒロインのストーリーについて朱音さんに相談し、「だれもが恥ずかしくなってしまうようなキモいストーリー」にアイデンティティを見出している。
ここで倫也の言う、「誰もがキュンキュンしてしまうような、魅力的なヒロインによるラブストーリー」というのは、我々がいま見てきたものだ。
私が思ったのは、「現実ってこういうもんだよな」
目を覆いたくなってしまうような恥ずかしいシーンとして揶揄されてはいるが、どちらかというと、あまりにも恥ずかしく、あるいはベタすぎて誰もが小説やあるいはストーリーとして描かないようなことこそが現実であり得る。
ドラマチックな起承転結が起こって結ばれるわけではなく、倫也が思い描くような「痛いヲタクの妄想」というのが、実際には一番現実に近くて、それは加藤ないし「普通の女の子」が求めることなのではないだろうか。
ただし、これを普通の小説でやっても意味がない。なぜなら現実よりも創作のほうが面白いから。そういう意味で言えば、冴えカノのようなオタク的起承転結物語をメタ的な視点で見ることができる作品だからこそ選択することができたルートなのかな、と。
倫也と加藤がキスするシーンでも同じだ。はじめのキスに失敗して、「いっせーの」で二人でキスする。こんなのも、描かれないだけで、現実の男女はきっとこんなものなのだ。美智留と出海にからかわれてしまうほど、恥ずかしく、甘酸っぱい。
要は、オタク的な夢の描き方は、きっと間違っていないんだろう。
告白直後、加藤に「俺でも頑張ればイケると思った」なんて言い腐った倫也だったが、要は天才でもなんでもない平凡な二人による平凡なラブストーリー。
そのシーンで「普通の女の子なら怒って帰っちゃうよ」と言った加藤ちゃんだったが、それも一つ加藤ちゃんの「普通の女の子」たる所以だ。「こんなこと許してくれるの私くらいなんだからね」的なセリフ、非常に「普通の女の子」じゃないかな。こんなめんどくさい言葉、きっと普通の創作では取り上げられないセリフだ。
そのような思いを持った加藤ちゃんだからこそ、劇中のゴタゴタなんてものは「タイミングが悪かったんだよ」で済ませられる問題なのだ。それでも、わかってても怒っちゃうのがリアルなんだけどね。
「二次元の女の子みたいに笑って送り出せばいいの?それとも三次元の女の子みたいに泣いて怒ればいいの」という言葉も、単なるメタではない。
二次元的に起こりうる「転」に対しての加藤ちゃんなりの考え方だ。だからこそ、その後に待つ「結」を受け入れることもできる。
「名前で呼び合う」「毎日スカイプで通話する」「誕生日だから一緒に池袋に出かける」「もうとっくにフラグは立ってる」とか言っちゃう。そんな、「絶対あいつ俺(私)のこと好きじゃん!」という関係性になるまで告白できないのも、現実でよくある話だ。
Topic:冴えカノは萌えアニメにとどまらない
冴えカノは、魅力的なキャラクターによる恋愛を題材にしたストーリーだ。ただし、それに限らない題材がある。
勿論ひとつには、あれだけ倫也と加藤の関係性を綿密に書くようなことは、萌えアニメにはあまりない。ギャルゲーを舞台にしたこのストーリーはやっぱり恋愛アニメだ。ただ、それだけではない。
たとえば、「バクマン。」という作品があるが私はそれに近いような、業界、あるいは物書きの世界を描きたかった世界なのかな、と感じた。
このアニメは、ただの消費豚(詩羽先輩談)である安芸くんが、周囲の天才にまみれてクリエイターとして成長していく話だ。ただの恋愛物語に落ち着かず、クリエイターとしてのあり方を示している。詩羽先輩と英梨々の姿は、まるで原作者丸戸先生とイラストレーター深崎先生に通ずるものがある。その点における、クリエイター側の思想についてのリアリティが強かった。
これはこれまでの各イベントでも、アニメに対して丸戸先生や深崎先生が非常に深い関わりを持っているという発言が多かった。その辺のリアリティは、原作サイドの協力あってこそだろう。
わたしは以前書いた記事の中で、このアニメで共感性羞恥を感じるといったようなことを執筆した。要は、倫也が話す妄想が、一番痛い頃の自分を見ているかのようだったから。実際冴えカノを見ていると、色々なシーンにおいて歯がゆさ、むずがゆさみたいなものを感じた。
例えばこれが「冴えない彼女の育てかた」を書いている側(倫也あるいは原作者丸戸先生)の思惑だったとしたら。要はめちゃめちゃ恥ずかしくてキュンキュンする物語を恥ずかしげもなく書くことを武器として視聴者に刃先を向けているとしたら。こちらがニヤニヤしてしまった時点で「してやられた」ことになるだろう。
さすが、丸戸先生。
もうひとつ、今作では朱音さんが重要な舞台装置として登場した。2期終盤で英梨々と詩羽先輩をヘッドハンティングするという、ようは恨みを買うような形で登場したものの、その姿はクリエイターとしての理想と現実を倫也に示す存在だった。
それは冴えカノにおいて大きな1事件ではあったものの、英梨々と詩羽がクリエイターのしての自分と、倫也への恋慕を天秤にかけるきっかけとなった。思えばあの二人がヒロインとして退場したのは、その一件だったのかな。
そのようにクリエイターとしての姿を併せ持つヒロインたちの姿がドラマを生んでいる。
映画最後のシーン、カンパイと言い合う彼女たちの姿がある。それは、「冴えカノ」が終わることに対しての「お疲れ様」であるのは自明だが、そのような演出の裏には、これまで何度もメタ発言をしてきた作品の中に、クリエイターの姿を見え隠れさせている、キャストたちの生の声だった。
おわりに
「冴えない彼女の育てかた」は終わってしまった。パンフレットでもキャストの皆さんは揃いも揃って終わってしまうことに対する寂しさを示していた。私もそうだ。冴えカノロスだよ…。
「私は、あなたの思い描くヒロインになれましたか」
何も文句のつけようがない終わり方だった。加藤を「冴えない彼女の育てかた」のヒロインにさせたのは倫也であり、丸戸先生であり、深崎先生であり、視聴者であり、私だ。
加藤はこの物語に関わったすべての人間に語りかける。冴えカノが唯一無二の特徴を持つ限り、全オタクにとって加藤は唯一無二の存在で有り続ける。
とりあえず私は、死ぬまで深崎暮人先生の美麗なイラストを追い続けることにします。
最高のラブストーリーをありがとう。
「劇場版 コードギアス 復活のルルーシュ」私なりの感想・考察 こういうので良いんだよ…。
劇場版 コードギアス 復活のルルーシュ見てきたぞ。みんなは見たかな?見てない人は先に見に行ってくれ!この記事ではネタバレをしまくるぞ。あと余談多めだぞ。
ところで近年、私が好きなアニメがたびたびリバイバル制作されることが多い。エウレカセブン、フリクリ、フルメタル・パニック…。いずれも00年代を代表する名作アニメだった。
それらの続編が10年以上の時を経て制作されるのは素晴らしいことだと思うが、完成度としては首を捻る出来栄えだった。
例えば劇場版エウレカセブンは、TV版の映像を使いまわし再構築した映像として三部作のうち1作目が公開され、賛否両論を得た。(そして2作目で手のひらを返した)
例えば劇場版フリクリは、OVAの監督であった鶴巻監督が離れ、6人もの監督の連名のもと出来上がった。
作品としては悪くなかったのだが、フリクリの続編と考えるとやはり鶴巻監督独特の空気感のようなものが薄まってしまっていた。
フルメタル・パニックIVはTV放送であったが、00年代当時の全盛期のGONZOや京都アニメーションと比べ、4期を担当したXEBECは作画崩壊が目立った。ストーリーやキャラクターは相変わらず好きなため殊更残念であった。
00年代のアニメには、世間的には大きく取り上げられないからこその市場の狭さがあり、更にほとんどの制作がデジタルアニメで行われるようになったことから、各社とも発展途上の分野に対して力を注いでいた印象がある。
言うまでもなく現在のような大アニメブーム時代においては、市場が大きくなりはしたもののバブルと言うほど景気が良いわけでもない。
当然だが、ただアニメを作れば良いのではなく、なにかヒットさせるための要素を持ったアニメが人気を博している。
私は正直、その”ヒットさせる要素”として過去の作品のリバイバルが行われているだけなのではないかという訝しみも感じている。
で、今回見てきた劇場版コードギアス。これはマジで最高だった。
先述したような私の不安を取っ払い、完成度としては申し分ない出来。なにより、下手な小細工もなく純粋にTV版のスタッフが集まって作った完全新作というような内容であったので、当時の空気感がそのまま感じられた。
こういうのでいいんだよ…。と思った。
これは公開前のPV映像だ。映画見た後だとゾクゾクするな。私は生粋のネタバレ嫌いなのでPVすら一度も見ずに劇場へ行ったが、最後のキャスト紹介にもルルーシュの名前はなく、本当にルルーシュが復活するのかどうかすらわからなかった。
こういう、粋なことしてくれるのマジで最高だな。
本編の感想と言っても全部追いかけるのもあれなので要所要所私が好きなシーンを挙げる
- 「破ったな…!ルルーシュが残した平和を!」のシーン
- 敵がギアスを使うシーン
- メカ作画がカッコよかったシーン
- シャーリーが生きていたシーン
- 「ルルーシュ・ランペルージからとってL.L.、なんてどうかな」
- まとめ
「破ったな…!ルルーシュが残した平和を!」のシーン
私が開始10分で泣きそうになったセリフ。
劇中ではまずルルーシュが去った後の世界の様子が見られた。カレンの「みんなー!久しぶりー!」というセリフが視聴者に向けられたセリフだということは言うまでもないだろう。
ルルーシュの死、彼の自分勝手な自己犠牲が生んだ世界の平和を皆が謳歌している姿にも来るものがあったけれど、それを何よりも大事にしていたのはスザクだったんだなと言うことが伝わるシーンだ。
後にルルーシュと二人で語るシーンが有ったが、「君(ルル)のいない世界は思っていたよりも孤独だった」というように、世界の平和を孤独に守っていたスザク。その心には、かつて自らの理想のために孤高に君臨していたルルーシュの姿が映っていたに違いない。
エモいな。
敵がギアスを使うシーン
敵がギアスを使うことはこれまでもあったが、マオやシャルルなどギアス教団がバックに立っていることが分かる人物ばかりであった。
今回の敵はジルクスタンという小国だ。上の画像のクジャバットと、女王のシャムナがギアスユーザーだが誰から授かったものなのかは明らかにされていない。
C.C.曰く、ギアス教団の分派のものらしいが…。
そういえばあなたはゼロレクイエムの詳細をご存知だろうか。
シュナイゼルを軍門に下したルルーシュは、フレイヤ弾頭を脅しに使い各国を次々と超合衆国に加盟させ、世界の統一を図った。
ということは、その時点で世界のどの国も超合衆国に軍事力では歯向かえなかったということだ。
シャムナのギアスを持ってすればフレイヤ弾頭に対抗できたのでは…。いや、シャムナの野望を実現するためには別に超合衆国に加盟することも構わなかったのか、あるいはシャムナだけループを経験し、結果どのルートに至っても合衆国加盟ルートしかなかったのかな…。
なんとなく妄想を掻き立てられるけど、語られない以上は理解しようもない。ただジルクスタンについてはわからないことも多かったのでスピンオフか何かで描いてほしいものですね。
メカ作画がカッコよかったシーン
劇場版なので当然作画には期待していた。私に限った話ではないと思うが、ロボットアニメとメカ作画は切っても切れない重要な要素だ。
最も印象に残ったのは上のミサイルのシーン。よくわからない方はPVを見てもらえばその凄さが分かる。
もともとコードギアスのメカは地上戦がメインだったのでミサイル作画はR2の後半にしか登場しなかったものの、スラッシュハーケンという神便利武装で美しい軌道を描いてくれていたので満足していた。
今回の映画ではスラッシュハーケンはあまり活躍しなかったが、綺麗なサーカスが見られたのが嬉しい。とは言っても一瞬だったが。
個人的に推しナイトメアフレームのコーネリア姉様のグロースター。
と思ったけど要所要所デザインが違う…?パンフレット見ていない(売り切れで買えなかった)のでわからないけれど。
紅蓮やランスロットといった第9世代KMFが幅を利かせる中で未だに泥臭いKMFでめちゃくちゃ戦果を上げるコーネリア最高にかっこいい。
今回の映画では藤堂やシュナイゼルが内政に留まったこともあり、コーネリアとゼロが合流したシーンは鳥肌が立った。
というか、コーネリアがルルーシュの味方をするのって何気初めてなのでは??
黒の騎士団と団結したのもルルーシュが世界征服したあとだったし。
シスコンブラコンで有名なコーネリア姉様がやっとルルーシュと肩を並べて共同戦線を貼るというのもエモい。
もちろんランスロットも健在です。
ルルーシュの戦略シーンが多かったのでランスロットや紅蓮の活躍はあまり多く描かれなかったけど、しっかり活躍していた。スザク特有のロボットの動きから外れた運動性能を見せつけてくれた。とくに、このポーズをした瞬間はもう泣きそうになった。
今回の映画、当然だけど思い出補正強いな…。
コードギアスはストーリーやキャラクターもさることながら、ロボット作画も最高にキレッキレなので、初めてロボットアニメを見る人とかにも勧めやすいよね。
メカについての詳しい情報は公式サイトで。
http://www.geass.jp/R-geass/nightmare.php
シャーリーが生きていたシーン
ごめん、コレばっかりは私の不勉強なんだけど、劇場版3作目でシャーリー生存ルートに分岐してたのね…。
劇場版反逆は見に行っていなかったから知らなかったです。
ギアスを始めてみた時は、「あ、このアニメ普通にヒロイン殺しちゃうんだ」と思った。いや、R2まで見たらアレかもしれないけど、1期って普通にカレンやC.C.っていうよりもシャーリーがヒロインって感じだったじゃん?
で、私って最初に見た鳥を親と認識してしまうタイプの雛というか、ZガンダムじゃなくてガンダムMk.2が好きっていうか、ダブルオーガンダムよりガンダムエクシアが好きみたいなタイプの人間なんですよ。
R2でシャーリーが死んだときには、私の心に決定的な穴が空いた気分になったし、ルルーシュ同様めちゃくちゃ腹がたった。
…という思い出深い女性だったのだけれど、復活のルルーシュ見に行ったらシャーリー女史も復活していたでござる、みたいな。
「ルルーシュ・ランペルージからとってL.L.、なんてどうかな」
今回最大の爆弾ですね。
まあ、コードギアスって強烈なヒロインが3人もいるのにあまりヒロイン論争になってこなかったけど、やっぱりC.C.がメインヒロインだった。
アニメ2期でR2(アールツー)っていうサブタイトルが付いたのも、
「これってルルーシュ・ランペルージがC.C.みたいにコード保持者になるって話じゃないの~?」
っていうお決まりみたいなやり取りがあったけど、まさか本当にL.L.を自称するようになるとは。というか、やっぱりルルーシュにとってはランペルージの性は大事なんだな、というか。
王室に生まれた結果得たブリタニア性を使ってギアス、黒の騎士団、悪逆皇帝とダークヒーローの道を進んだルルーシュにとっては、アッシュフォード学園で平和な日々をナナリーや友人と過ごしたランペルージ性の特別さみたいなものは視聴者も感じるところだよね。
まとめ
というわけで久し振りにルルーシュに会ってきました。
正直言って、最初に言ったとおり見る前はだいぶ不安もあったけれど、中身はいつもどおりのコードギアスだった。
いつもどおりっていうのが大分重要というか、ラーメン屋に入ってラーメン頼んだのに蕎麦が出てくるみたいな作品が多い昨今でよくここまで視聴者のニーズに合わせてくれたな、と。
絶賛公開中のシティハンターも見に行ったけど、こちらもコードギアスと同様にかつてのアニメと同じノリでリバイバルされている感じだった。
リバイバルブームも1周回って、「新作」ではなく「続編」のような感じで作ってくれる場合が増えたのは既存ファンからしたら嬉しことだ。
作画も相変わらず安定、空気感やキャラ、声優、文句なしです。
アニメ化しそうな漫画紹介【その5】CITY
アニメ化しそうな漫画紹介。アニメ化する前に読んどいて、アニメ開始してから「俺その作品○年前から知ってたわ~」ヅラをするのにおすすめなシリーズ。
『CITY』という漫画を紹介しようと思う。正直アニメ化してほしい漫画は他にもたくさんあるんだけれど、「日常」があれだけギャグアニメとして評価された過去があっては、いずれアニメ化するんじゃないかと期待できる作品だ。
作者・あらゐけいいちは、前述した「日常」で有名な漫画家だ。以前は角川の「少年エース」で日常を連載していたのだけれど、現在は講談社「モーニング」で連載している。
まあ「日常」自体少年漫画雑誌に乗るとしてもシュールだったから、どちらかと言ったらモーニングっぽいけれど、なんで出版社変わったんだろうね。邪推はたくさんできるけどしないよ。
「CITY」のギャグ漫画としての魅力は「日常」と同じところにあると思っていて、これはあらゐ先生の漫画全般に言えることなんだけれど、順番に挙げていくよ。
とは言ってもギャグを分析するみたいな感じで恥ずかしいから手短にやるよ。
まず大前提として私はいわゆる群像劇モノが大好きだ。
色んな人のいろんな行動を画面に映して、最後にそれが一つにまとまる、みたいな話が好物です。
並列処理していった結果、最終的に頭の回路にうまく電流が流れたみたいな達成感を感じることができるのっていいよね。
それで言ったらあらゐ漫画は舞台装置に群像劇というセットを使った上でギャグ漫画を成立させていて、これがとても効果的に機能していると思う。
ギャグ漫画であることの利点は、群像劇としてのオチが必要ないところだと思っている。
例えばさっきの「群像劇」の簡単な例でいうと、『色んな人のいろんな行動』が『最後に一つにまとまる』というオチに収束することが物語の大トロになるわけだが、ギャグ漫画である以上は一つ一つの物語自体がオムニバスとして成立してさえいれば大トロは必要ない。
それこそ漫画雑誌という媒体で1話完結として連載している以上、その話に内包されているオチを毎回味わえばよくって。
群像劇という舞台装置を選択しているにもかかわらず、群像劇としてのオチを必要としない、このような形の作品はいくつもあるけれど、これにギャグ漫画というのはとてもマッチしているんだなぁと。
(ギャグ・コメディ含めた広義の意味での)ギャグ漫画という括り1つとっても、そこにはストーリーを必要としない漫画もたくさんある。
キャラクターさえいればどうとでも作れる作品もあり、「日常」はどちらかというとこれに含まれる。
しかしそこに各話同士の関連性を持たせた結果、軽い群像劇としての面白さも含まれ、どちらかというとこれが視聴者のモツにハマった結果世間からこれほどの評価を受けるまでになったのだろうな。
群像を描いた漫画に「日常」や「CITY」と名づける作者の美的感覚にも痺れるよね。
「CITY」で用いられているのも「日常」と同様の形式だ。「日常」が好きだった人ならばもれなく「CITY」も受け入れることができるはず。
「日常」は終わってしまったが、「CITY」にも「日常」のキャラクターが描かれていたりと世界観は同じっぽいし、実質続編みたいなものだろう。1stとZみたいなもんだ。
まあ考えてみれば、キャラクターありきで成り立つギャグではあるものの、ネタが尽きてもキャラクターと舞台を変えてしまえばいくらでも続きを書けるということなんだろうか。
「日常」では女子高校生の日常を描いていたけれど、それをさらに街サイズに広げたのだから書ける話の幅も増えたってもんよ。
絵柄もかわいらしいとギャグ映えの中間を行ってて読みやすいし、いい漫画だなあと。
と、ギャグ漫画にはちょっとうるさい新野がいま「ヒナまつり」と同じくらい大好きな「CITY」のご紹介でした。おすすめです。
↓から読めるので、どんなもんか覗いてみては。
エウレカセブン ハイレボリューション2 ANEMONE が前作をチャラにする良作だったと言い切れる理由
公開中のエウレカセブン ハイレボリューション ANEMONEを見てきたよ。
最初に言いたいのはめちゃくちゃよかったってこと。めちゃくちゃよかった上で言いたいこともいくつかあるけれども。
私はあまりネタバレが好きじゃないので、観に行くまで可能な限り情報を受け付けないようにしていた。知っていた前情報は、今作ではアネモネが主人公ってこと。
劇場版シリーズ・ハイレボリューションの致命的な欠点は楽しむためのハードルが高すぎることだ。始まりとなったTVシリーズ50話を見た上で劇場に来ないと最大限楽しむことはできないだろう。
いや、もっと言えば、エウレカセブンで描かれる世界は多重世界線的に存在し(ということも今回の映画や他作品で詳しく語られる)、例えば詩編世界とも呼ばれるTVシリーズの世界と、劇場版「ポケットに虹がいっぱい」では登場キャラクターの設定が違ったりする。
同様にゲーム版や続編のエウレカセブンAO、漫画版小説版と、私はすべてを網羅しているわけではないがいくつもの派生作品が存在し、それらを知っていれば知っているほど面白くなるものだろう。
いわば既存ファン向けの作品であることには間違いない。友人にエウレカセブンを勧めようと思ったら間違ってもハイレボ1や「ポケ虹」は勧めない。
エヴァ新劇場版が結果的に新規ファンの取り込みに成功しているが、TV版のストーリーを土台に作り直すという手法はエウレカセブンでも変わらないはずなのにそれに加えてTVシリーズの映像を使用するという、コストダウンでもありつつそれ以上に厳しい制限がのしかかってしまった。
ハイレボ1ではその使いまわしについて、ファンの間では様々な意見が交わされた。「なぜ、すべて新規作画ではないのか?」「なぜ16:9に直すことさえしていないのか?」「それにしてもTV版作画よすぎ神アニメかよ」「エウレカセブンは神アニメ」「AOは云々」
とりわけ、私はアスペクト比については本当になぜ直さないのかわからなかった。ガンダムSEEDや攻殻機動隊など、4:3のアスペクト比で作られたアニメがのちに16:9にリマスターされて発売された例は数多い。アニメ界隈でこのような手法は一般的といってもいいはずだ。
動画の上下が削られてしまうのは確かに勿体ない。特にこんなに作画がいいアニメだと。ただし、あえて4:3にするというよりは、コストのために4:3のままにしているような気がして、究極的に言ってしまえばあんまり熱意がないのかなあ新作に。と思ってしまった。
ANEMONEでは、アスペクト比が”意味のある要素”として登場する。伝送システムを使ってアネモネがダイブした世界では、その世界の切り替わりを表すかの如くアスペクト比が変化する。ダイブ後は新規作画ですら4:3で描かれている。これによって前作に感じた違和感、というか新規作画がなくTV版の映像のつなぎ合わせだけでストーリーを再構築しようとした際の微妙な齟齬のようなものが、まったくなくなったわけではないけれども薄れている。
ハイレボ1で語られたレントンのストーリーが4:3の映像だったことを考えると、この”意味”に当てはまったストーリーだったということだ。これについては後述する。
あくまで私の意見だけど、とはいってもエウレカセブンの作画を劇場版サイズで見ることができるって結構よくない?とも思うんだよね。
実際見てみればわかるけれど、途中に挟まれたTV版の映像はクオリティとして著しく劣っているものではなく、というかむしろこれが13年前とかの映像なのかよと目を見張るほどの出来だった。
作画の良さを再確認、というかむしろミサイル作画に関してはTV版のほうがぐりぐりサーカスしていて見ごたえがあった。
新規作画のミサイルは重力が加わっている感じの、スピードもありつつ重厚な「兵器~!」って感じでこれはこれで好きなのだけれど。
と、まずはアスペクト比に焦点を合わせてみたが、あるいは今回の作品では3Dモデルを用いた作画も行っている。
アネモネとエウレカが対話する精神世界のような場所、またはアネモネの過去について語られる場面。
今作では前作に比べて、というか前作であまり批判が多かったからなのか、ほとんどが新規作画といっても過言ではない。前述したアネモネのダイブ云々の場面以外は新メカ新キャラ多数の新規作画だ。
そんな中、コストを浮かせようとした結果が3Dモデルなのだろうか?結果的に3Dモデルを外注するのとアニメーターが描くのとどちらの方がコストがかからないのかはわからないが、コストダウンを演出に昇華させることができれば前作のような批判は生まれないだろう。
パンフレットでは、3Dモデルを用いた作画のうち巨大化したガリバーがたくさん出てくるシーンについて語られている。
ガリバーが多数登場する場面なので、アニメーターの間では変なポーズのガリバーを作ったりして遊んでいた、みたいな。超時空要塞マクロスでミサイルをこっそりバドワイザーの瓶にしていたことは有名だが、こういうアニメーター的な遊びっていうのは1アニメファンとしてはちょっと楽しくなってしまうポイントだし、それだけ熱意を感じるポイントでもある。
小手先の話はこの程度にして、ストーリーについて考えてみよう。
ネタバレされたくない人はカットバックドロップUターンだ。
なにいってんだこいつ。
さて、わかりづらい部分も多いが、今回はエウレカセブンと呼ばれる巨大な構造物??と人類が戦っているシーンから始まる。アネモネやミーシャが居るのは現代的な日本だ。エウレカセブンで明確に地名が現れるのもTV版を見た後だと新鮮だし、何か意図を感じ取ってしまう。
詩編世界では地球は地表をスカブコーラルで覆われていて、その下に現在私たちが住んでいるような世界が広がっている。
これはハイレボ1の世界についても同じで、なぜかハイレボ2で突然地上世界が描かれている。
アネモネはその後エウレカセブン内に伝送装置を使ってダイブする。エウレカセブン内に広がっていたのは詩編世界のような、スカブコーラルの地上。というかTV版の映像だからそりゃそうだ。
のちに語られることをまとめると、アネモネが何度もダイブするそれらの世界はエウレカが「レントンが死なない世界」を何度もつくりかえながら探しているうちに生まれたものだ。デューイ曰くごみ処理だとか。
ちなみにこのデューイはおそらくハイレボ1で登場したデューイが何らかの形で世界線を移動し現れたものだろう。
原因についてはシルバーボックスが関係していると思われるが、ハイレボ1ではあくまでスカブコーラルを排除するための決戦弾頭音響兵器、という扱いだけで世界線についてはあまり語られていなかったと思う…。アドロックがシルバーボックスを止めた本当の理由は何だったのだろう。まあ確かにそのままシルバーボックスを使っていたらTV版のデューイと同じように共存できない破壊する、になってたわけだけれど。
エウレカが何度もつくりかえた世界の正解がハイレボ1のレントンなのだと思うが、そうだとしたら、これまで見ていた世界がいくつもあるエウレカが作り出した世界のうちの1つであり、ハイレボ2で描かれる世界こそ本物…いや、本物っていうのもおかしいけれど、エウレカが作り出した世界を包括している世界ということになるのだろうか。
ラストシーンでエウレカセブンが崩壊し、終盤でデューイの両足が実体化したこと、そして月光号やゲッコーステイトの面々、そしてデューイから涅槃の案内人と呼ばれた卵の中のニルヴァーシュがこちらの世界に飛ばされてきたことを鑑みると、2つの世界の融合みたいなことが起こったのだろうか?
あるいは最後の1シーンだけ登場したレントンは未だスカブコーラルの大地に立っている様子だったが、どちらの世界も存在しているということなのだろうか?ラストシーンは表現が抽象的だったので明確なことがわからない。こればっかりは次作でどうまとめてくれるのか楽しみなところだ。
さて、今回の映画はアネモネが主人公だ。ハイレボ1でのレントンは、エウレカセブンのストーリーのうちアドロック、あるいはビームス夫妻とのエピソードが重点的に描かれていた。これらのストーリーは4:3、つまり今作でいうところのエウレカセブン内の世界の物語だったと考えることができる。そして新規作画ではなかったのが、あくまであの世界の出来事は詩編世界の物語である、ということを強調している。とはいっても一番の理由はコスト削減使いまわしなんでしょうが。
これが前作をチャラ、というかハイレボ1のアレを演出として落とし込むことができるよねハイレボ2見た後だと、っていう話ね。
エウレカセブンシリーズの全体的なテーマとして大人と子供というのがある。もちろんこの大人と子供には親と子という意味も含まれている。これはポケ虹やAOでも共通していることだ。
レントンにとってのアドロック、あるいはビームス夫妻はTV版でも重要な存在であった。
今作ではアネモネはエウレカのコピーとして作られた存在ではなく、父親が存在する普通の女の子だ。父・石井賢との思い出を抱えて前進するアネモネ、泣いちゃうぜ。
ハイレボ3で焦点が当たるのは間違いなくエウレカだろう。前述した2人のようにエウレカには親がいない。しいて言えばコーラリアン?
そんな中で、どのようにこのテーマと向き合うのかが気になるところだ。
もちろん、無理にたたき台にあげる必要はないかもしれない。でもアネモネにわざわざ父親を与えたんだったら、何かしらの意図はありそうなんだよなあ。
とはいえ、アネモネの言葉でエウレカは世界と向き合うことを決めた。ゲッコーステイトもこっちの世界に来た。土台は十分だ。
ハイレボ3、楽しみにしていよう。
あっそうだ。
劇場で気づいたんだけどやくしまるえつこの歌が挿入歌になっていたね。私は普通にやくしまるえつこ好きなのでびっくりしました。あと驚きました。同じか。
TV版ではsupercarの曲が挿入歌として使われていたけど、思えば挿入歌にドはまりするようになった、私がアニメと音楽の繋がりに焦点を当てるようになったきっかけはエウレカセブンだったなあと思う。エウレカセブンがなければこのブログは存在しません。404Error。
やくしまるえつこは以前supercarのいしわたり淳司さんとも共作したこともあったし、アニおと的繋がりを感じますなあ。
とても好きな曲になりました。
”四畳半神話大系”の聖地、あのラーメン屋がいつの間にか閉店していた。
京都・出町柳に時折出現する屋台ラーメンをご存知だろうか。名を猫ラーメンと言い猫から出汁をとっているという噂ではあるが真偽の程は定かではない。
猫ラーメンは小説、及びアニメ四畳半神話大系において主人公が度々通う謎のラーメン屋であり、怪しげな客、汚い学生たちが出入りする屋台であるがその味は無類である。
というのは一旦端においといて、その猫ラーメンという屋台にはモデルが存在する。
名をはらちゃんラーメンと言い、京都出町柳に時折出現してはインターネット上での評価も高く、どうやら噂に違わぬ名店であったそうだ。
ホームページを見るとなんとも食欲を唆られるラーメンの写真がデカデカと表示される。このサイトは客と店をつなぐ重要なツールであり、なぜ重要かと言うとこのはらちゃんラーメン、先程話したとおり本当に時折しか営業しないのだ。
毎日17時頃になるとブログが更新され、店主の短い日記のような他愛もない話とともに「○月○日 休みとなります」あるいは「営業します」という一文がみられる。
はらちゃんラーメンは不定期に休んでおり、客が行こうと思っても店がやっていなければ仕方がない。
因みに私ははらちゃんラーメンに赴いたことはない。ただ、いつか京都へ旅行することがあれば、そしてその日にたまたま営業していたら食べてみたいと思い、度々ホームページをチェックしていた。無類とまで言わせるほどだ、気になるじゃないですか。
ブログの記事を見る限りだとどうやらここ最近は店主の体調も良くないようで、2018/09/27日の記事を持って更新が途絶えている。そしてそこには「閉店します」との文字が。えー。
理由は特に明かされていない。諸事情とだけ書いてある。
最後に営業していたのはいつだったのかというのをさかのぼってみてみると8月22日だった。ということは最後の営業は閉店の1ヶ月以上前ということになる。まさかその時食べた客も、それが最後の味であるとは夢にも思っていなかっただろう。
保存されない物というのは貴重だ。物事には保存されるものとされないものがある。昔既だ小さな部屋は今は誰かが住んでんだなんてこともあるし、倒壊していまでは空地になってしまっている場合もある。
食べ物の場合は特に保存性がなく、はらちゃんラーメンを食べる機会は今後二度となくなってしまったということだ。この店が屋台であったということも輪をかけて保存性のなさを痛感させられるし、必要のなくなったこのホームページはサーバーとの契約が切れてしまったら閲覧できなくなることだろう。
まして私は食べたことすら無いので記憶に保存しようにも出来ない。存在を覚えておくことは出来るが。
小説で認識して、インターネットで存在を知った私と、かの店との薄い繋がりが断ち切られてしまったようで残念だ。
そんな保存性のなさについて考えてしまったので、ブログに書いておくことで私自身へのアーカイブスにしたい。
それにしても閉店ですか。森見登美彦といえば今をときめく人気小説家だし四畳半神話大系というのはその代表的な作品と言っても過言ではない。世界的に人気な作品だ。
それでも”諸事情”で閉店してしまうのなら仕方がない。健康とかそういう話なのかな。だとしたらお大事に。
久しぶりに小説を読んだ。伊坂幸太郎-「死神の精度」
久しぶりに小説を読んだ。
私は別に読書家でもないし、年に5冊ほど好きな作家の本か表紙が気になった本を買って読むくらいだ。
最近ライトノベルのことをよく考えるけど、あれだけラノベ少年だったのにあまり小説への架け橋にはなってなかったんだなあ。そういう人結構多いかも。
伊坂幸太郎は我が家で流行っている作家だ。これまで気に留めたこともなかったけれど父も母も小説が好きで、弟も家にある本を結構読んだりしている。私以外みんな小説を読んでいる気がする。
他にやることがあったから読んでないだけで小説自体は好きだ。やっと読み終えることが出来たな。
「死神の精度」はタイトルの通り死神が主人公だ。死神っているのはいろんな媒体で登場していて、漫画でも映画でも落語でも死神と言ったら一つくらい思い浮かぶものがあるだろう。と言っても構わない程度にはメジャーな題材ということだ。
人間には必ず生死が寄り添っている。死んでみないと生きている実感がわかないみたいな言葉もあるくらいだから多勢の人にとっては生きていることよりも死ぬことについて思いを馳せる事が多いんじゃないだろうか。
この小説が舞台になっているのは普通の社会だ。今もどこかで起こってるんじゃないか、と思うような小さな事件が短編集としてまとめられている。
死神は人が死ぬ8日前にその人の前に現れ、8日間行動をともにし「可」か「見送り」かを判断する。「可」というのはつまり8日後にその人が死ぬということだ。
死神はそのときどきにおいて初老だったり、妙齢だったり、美形だったりと姿を変えて突然あらわれる。そして「可」か「見送り」かを判断してその場を去る。
あらすじを書けばこんなところだが、実際に小説ではあまりその人の生死について深く語られることは少ない。
死神は事務的に仕事をこなしつつ、様々な人々に出会う。いずれの物語も、人間社会、あるいは文化に対して疎い死神が出会いの中で様々な経験をしていく、短編物語だ。
ううん、うまく言語化出来ないな。ヒューマンストーリーというには仰々しいが、いろいろな人間の人生のうち、死ぬ間際だけを切り取ってスライドショーをみているような、そんな小説だ。そしてそれは死神にとっても同じことで、いくつもの人間を「可」にしてきた死神にとっては人の生死など別段どうでもよく、興味も無い。そんな死神のレンズを通して語られる文章はドラマティックではないがどこかリアリティに満ちたものとなっている。
特に、死神の精度と題した短編集の一作目。※ちょっとネタバレます。
死神は7日間行動をともにした人間の生死をコイントスで決めることにした。
この物語では、人間の生死というのはその程度のものなのだ。それが、「死神の精度」であり、生死を司る神にとってはその程度のものでしか無いということなんだよね。
私は工学系なのでなおさら精度という言葉に敏感になってしまう。
こんな話もあった。その日死神が担当した人間は、過去に恋人を亡くし、夫を亡くし、息子を亡くしていた。人間の生死にはいずれにしても死神が関わっているのだが、これほどまでに周囲の人間が死んでいくことなどあるのだろうか、というのをたまたま街で出会った他の死神に尋ねると「偏ってるって言っても、誤差みたいなもんじゃない」
誤差というのは本来無いものとして考えるものだ。しかし避けられないから誤差として仕方なく認めている。死神にとってはそんなこと、「どうしようもないしどうもしなくて良いんじゃん?」程度のものだということ。
死神はどのような基準で死ぬ人間が選ばれるのかを知らない。誰がそれを司っているのかもわからない。全能ではない人間を裁いて(あるいは捌いて?)いるのは不完全で全能ではない死神ということ。
デス・パレードというアニメがある。私は学がないのでアニメで例えるしか出来ないのだが。デス・パレードは死後の人間二人をゲームで争わせて、その二人が天国へ行くべきか地獄へ行くべきかを判断する「裁定者」の話だ。
しかし物語終盤では、自分がどのように作られた存在なのか、なぜ自分が審判を下すなどという事をしているのか、そもそも天国や地獄とはなにか、といったことに悩んでいく姿を描いている物語だ。
死神の精度はこれよりはもっとドライに死神の姿を描いているが、どのようにして死ぬ人間を選んでいるのか?といった疑問を抱く。その答えは語られないが、個人的にはこういうのはフィクションの醍醐味だな、と。
読者はこういうもんですよって語られるものをそうなのか、って読んでいくしか無いわけで、でもそこには確かに疑問が存在したっていうことが馬鹿な私は語られるまで気づけ無いんだよね。
死神を題材にした物語は多い。小説家になるともれなく死を題材にかくという話も聞いたことがある。誰も死後のことなんてわからないから好きなようにフィクション出来るから、だとさ。
私は伊坂幸太郎の小説は初めて読んだけど、読書家な人にとっては「伊坂さんはこういう風に死を解釈したのね。」みたいな楽しみ方も出来るんじゃないかな。